『おまえの野球には、心がない!』
私は、100人の部員の前で、たった1人怒鳴り飛ばされていました。
脱帽、直立不動。
一体、いつまで続くのか?私の後ろの50人の野球部員はみんなそう思っていました。
私はひとりで、怒鳴られ、ののしられ、罵倒され続けました。
これは、私がまだ大学1年生、18歳だったときの話です。
夏休みの長い、長い、本当に長い一日の練習が終わり、最後に野球部全員が整列しました。もう日が暮れてあたりは暗くなり始め、野球場には長い影が落ちていました。
『おまえの野球には、心がない!』
『常にスタートは心だ!』
『心の態度、心の意識を高めなくてはならない。』
こんなことを言われたのは、人生で初めての経験でした。
頭をガ〜ンとやられたようなショックでした。
私は、監督が理解できなかった。
小さい頃の私は、いつも野球をしていました。我々の世代では、近所の小学生が集まると、自然に野球が始まったものです。ちょうど巨人の王貞治選手は、ホームラン記録を更新していた頃です。
『大きくなったら、プロ野球選手になりたい!』
無邪気ですよね。まあ、これも私の年代ならみんなそうなのですが、私もごく自然にプロ野球選手を夢見るようになりました。
中学校へ進み、野球部へ入部。本格的に野球に取り組み始めました。
そして、地元の糸魚川高校へ進学。当然のように野球部へ入部。
日本中の高校球児と同じように、私も甲子園を目指しました。
高校時代の私は、口数が少なく、大きな声を出してチームを引っ張るというタイプではありませんでした。どちらかというと、ひとりで黙々と練習に励むタイプでした。
まあ、イチロー選手の高校時代みたいな感じすね。
自信がありました。バッティングも守備も、同年代の選手には、負けない自信がありました。実際、プレーで負けたと思ったことはありません。打ち損じても、「次は必ず打てる!」という確信が、いつもありました。
そして、1985年。高校3年の秋。
糸魚川高校のグラウンドにプロ野球全12球団のスカウトが集まり、私のバッティングを見守っていました。
この年のプロ野球ドラフト会議の目玉は、甲子園を沸かせたPL学園高校の桑田、清原のKKコンビ。ドラフト会議直前のスポーツニュースでは、桑田、清原とともに、私のバッティングの映像が、全国に流れていました。
夢だったプロ野球が、現実の目標となってきました。
このまま打ち続ければ、プロだ!
その後、大学日本一の駒澤大学へ進学。
さすがに大学日本一のチーム。驚きました。自分の周囲は甲子園で活躍した有名な選手ばかり。実際、のちにプロ野球で活躍する選手ばかりでした。
『こんな中で、本当にやっていけるのだろうか?』
期待より、不安が先でした。しかし、私は打ちまくりました。
1年生の春からリーグ戦に出場。代打から始まり、途中出場、そして先発。
打順も徐々に上がり、そのシーズンの最後は、クリーンアップを任されていました。
『このまま打ち続ければ、卒業後、プロだ!』
憧れだったプロ野球が、もう目の前にある。そんな気持ちでした。
ところが、私のバットから快音が消えました。
だんだん試合からも遠ざかりました。試合に出られない経験も初めてでした。
練習にも身が入りません。すべてが悪循環です。
『打ち損じても、次は打てる。』
すべてのボールが、もう打てそうにないと思えました。
私は、生まれてはじめて挫折を経験しました。
それから卒業するまでの3年間を、私は今でも悔やんでいます。
私の関心は、野球以外のほかのことに向けられました。あまりにも夜遊びがたたり、あげくの果てに、大学4年生のときには、練習への参加を禁止されてしまいました。
決まっていた社会人野球への就職もパーになってしまいました。
さすがに、これではまずいと思い、私も考え直しました。
ユニフォームを取り上げられていたので、ふんどし一丁で練習に参加し、近所の人から見苦しいとの声が上がり、ようやく練習への復帰を許されました。
ユニフォームも取り上げられた。
合宿所で同じ釜の飯を食べていた先輩や同級生、後輩たちが、卒業後何人もプロの世界へ進みました。それを横目に、なんとか拾ってくれるチームも見つかり、私は社会人野球へと進みました。
新しい挑戦でした。
しかし、現実は厳しいものでした。
その5年後。27歳になった私は、ある決断をしました。
糸魚川へ帰郷し、家業の建設業を継ぐ。
『プロ野球選手になる』というは、私にとって小さい頃からの夢でした。
プロへの憧れは今でもあります。もうたっぷりお腹出てきた今でさえ、まだやれるものなら、やってみたいといつも思っています。
でも、ついに叶いませんでした。
私にとって、人生最大の挫折でした。
そして、人生最大の挫折
今振り返ってみれば、私の人生は挫折の連続だったように思います。
野球選手として華やかな活躍をしたことより、『何でこんな無駄なことばっかりやってきたのか。』という後悔の思いがずっと強いです。
糸魚川に戻り、家業の建設業の仕事に従事しました。
私にとっては、これから一生涯にわたる仕事です。向上心をもって取り組みました。少しずつ仕事を覚え、会社経営の勉強も始めました。早く一人前になりたい。みんなから認めてもらいたい。そう思い努力しました。
でも、ここでも現実は、そんなに甘くはあリません。
社長である父に「もっとこうした方が良い。」と意見しても、「おまえは、まだ何にもわかってない!」と頭ごなしに否定されてばかりでした。
そうこうしているうちに、また毎晩会社の同僚や昔の友人たちと飲み歩く毎日を送るようになっていました。また、大学時代の自分に逆戻りです。
(この辺の話は、これを読んでいるみなさんのほうが、詳しかったりして・・・・。)
野球をという大きな目標を失った私の心は、何か満たされず、どこか虚ろでした。
最先端のビジネススキルに興奮!
私と青年会議所との出会いは、ちょうどその頃です。
高校の野球の一つ上の先輩から誘われたのが、きっかけです。
『おまん、一緒に、ちょっと勉強してみんかね?』
勉強?意外でした。
いつもは、競馬にマージャン、パチンコが大好きな先輩が、『勉強してみんかね?』
私は、「きっとまた何か悪い勉強に違いない。」と想像してしまいました。
「とりあえず一回、行くだけ行ってみよう。」と思い、誘われるまま参加しました。
でも、そんなことはありませんでした。
初めて参加したのは、「例会」と呼ばれる毎月開催される勉強会でした。
その時のテーマは、パソコン教室。今、パソコン教室といえば、なにをいまさらですが、10年以上前は、まだメールもネットもほとんど普及していない時代です。
『ウォ〜、最先端のビジネススキルだー!』私は一人で興奮しました。
しかし、最大級の興奮が襲ってきたのは、パソコンではありませんでした。
いつも競馬にマージャン、パチンコの先輩が、みんなの前で発表する場面でした。
内容は、もう覚えていません。たいした内容ではなかったはずです。
でも、これには、驚きました。驚いたというより、もう度肝を抜かれました。
いつもの鉄工所の作業服姿とは一転、流行のスーツでビシッと決め、ゆっくり歩を進め、高校球児のように礼儀正しく国旗に向かって一礼。一段高い演壇の上から朗々と
スピーチを始めました。
『へっ〜!カッコいいー!』
これは、マジです!本当に演台の上でスピーチをする先輩を見て、
『オレもあんな風になりたい!』
『みんなの前で、堂々と自分の考えを話せるようになりたい!』
と思いました。
『オレもあんな風になりたい!』
それと同時に、学年では一つしか違わない先輩から、社会人としての大きな差を見せつけられました。いつもは競馬とマージャン、パチンコの話ばかりしている先輩も、学校を卒業後、しっかり社会人として必要な知識や仕事上の技術を身につけていました。また、家業の鉄工所に入ってからも、将来経営者として必要となるリーダーシップやマネジメントといったことも青年会議所で学んでいたのです。
その先輩に比べると、大学から社会人へと野球一筋だった私は、あまりにも未熟でした。当時、会社の朝礼や業界団体の集まりで、よく人前で話す機会がありました。
ですが、なかなか上手く話せず、苦い思いを何度もしていました。
だから、余計にそう思ったのかもしれません。
青年会議所では、例会と呼ばれる毎月の勉強会の終了後、第二例会と呼ばれる懇親会があります。少し堅苦しい例会に比べて、第二例会はお酒も入り、ザックバラにひざ突き合わせて話します。まあ、早い話が、飲み会です。
その席で私は先輩に、思い切ってお願いしました。
『他の先輩方を紹介してもらえないでしょうか?』
先輩は、「えっ?」という意外な顔をしていました。無理もないことだと思います。
高校時代の口数も少なく黙々と練習する私の姿からは、諸先輩を紹介してくれと自分からお願いしてくるとは、きっと想像できなかったのでしょう。
あんな風になりたいという憧れを持ったのは、野球を失ってから初めてでした。
今でもよく分からないし、うまく言えないのですが、
『とにかく、まずやってみよう!』
という気持ちになりました。
これが、私と奴奈川青年会議所との出会いです。
とにかくまずやってみよう!
それから10年。昨年夏、私は奴奈川青年会議所の次のリーダーに選ばれました。青天の霹靂とは、まさにこのことです。まさか、自分が・・・とは思ってもいませんでした。自分では、まだまだ未熟で勉強中だと思っていたのですが、周りは、私をそれなりに認めてくれていたということなのでしょうか。
少し迷いましたが、思い切って引き受けることにしました。
そして、昨年秋。新年度の予算をまとめるミーティングをしていた時のことです。
いつもより少し早く終わったので、駅前のいつもの店へ向かいました。
いつものようにビールを酌み交わしながら、「どうしよう?こうしようか?」新しい年の事業計画を、ひざを突き合わせて語り合っていました。
その晩は、珍しくリーダーシップのスタイルについて話が盛り上がっていいました。
『熊倉さんは、いつも迷った場面で、必ず志の高い道を選びますよね。』
「???」「・・・・・・・・・・・・・・。」私は、目が点になりました。
『志が高い道を・・・・』こんなことを言われたのは、初めてでした。
これまであまり言葉を交わしたことのない後輩でした。
自分のことをそんな風に見てくれている後輩がいる。
そのことに驚きました。
青年会議所で過ごした10年間で、私も少しは成長できていたのかもしれません。
心があれば踏み出せる
20年前の夏、私は大学の野球場で
『おまえの野球には、心がない!』
と言われました。
あのときは、それが何を意味していたのか、まったくわかりませんでした。
でも、今はわかります。
なぜ、私の野球には、心がなかったのか。
どうして、常にスタートは心なのか。
どうやって心の態度、心の意識を高めていくのか。
もしかしたら、まだわかっていないのかもしれません。
でも、わかっていない自分に気づいただけでも、成長だと思っています。
10年前、私は奴奈川青年会議所に入会しました。
いつも競馬にマージャン、パチンコの先輩から「一緒に勉強しよう!」と誘われ、
最初は半信半疑でした。でも、今振り返ればあのときが自分の転機でした。
それから『とにかくまずやってみよう!』と無我夢中で、わけもわからず、ただがむしゃらにやってきました。奴奈川青年会議所で過ごした10年間のすべてが、私にとっては勉強でした。今では、本当によかったと思っています。
これを読んでいるあなたが、新たな一歩を踏み出すことを、心から期待しています。